花売りの街 〜 Das Madchen verkauft sich ihm.

 目を覚ますと夜が明けていた。
 あれ程恐ろしかった闇が全くなくなり、辺り一面が明るい。依然として地面は堅く、時折小石を踏みつけるのか、馬車が揺れる。この揺れにももう慣れた。最初の頃はよく酔った物だ。
 目を擦りながら起きあがると、『彼』がこちらに背を向けて馬を操っていた。辺りは結構な気温だが『彼』はその真っ黒いコートを脱ごうとはしない。ただひたすらに黒いコートに目を奪われる。
「やぁ、起きたかい」
「………」
 背を向けたまま『彼』は話し始める。
「別に、まだ眠っていても良かったんだよ?」
「………」
「やれやれ、まだ警戒されているのかな。困ったな」
 『彼』は少しも困ったような素振りを見せないまま苦笑いをする。
 『彼』…と言っているが、実際は男性なのか女性なのか判らない。
 いつも身につけているその漆黒のコートが『彼』の体をすっぽり覆っている為、顔すらロクに確認出来ない。
 口調がすこし男の人の様だったので、私の中では『彼』と呼ぶことにしている。
 時折目が見えることがあるが、深く赤い色をしているその瞳は見ていてあまり心地が良い気はしない。
 出会った最初の頃なんか、見ていると吸い込まれてしまいそうな、そんな怖さもあった。
 『彼』は瞳が赤ならば、髪の毛も赤なのだ。結構長い髪だった。もしかすると女性なのかも…?
 その髪はまるで、生命を象徴する血のように、鮮やかな赤だった。
 そして、それは私も同じ。
 髪の毛も瞳も、ただひたすら血のように赤い。
 この赤い髪の所為で、あの街は無くなった。
 私の『始りの場所』、"監獄の街"、メルティスヴェーユ……。

 私は純粋な人間でありながら珍しい赤い髪をしている…らしい。
 身よりのない私をかくまってくれた教会、その中で私はそう教わった。記憶も失った私に唯一の光を与えてくれた教会。
 だがその街もあの日、消えてしまった。私が居た所為で。
 一部の妖魔に信じられている、不老不死。元来妖魔は長寿だが、そんな中でも永遠の生命を求めようとする者もいるという。
『妖魔が永遠の命を手にする方法は、純潔を守っている少女を喰う事だ』
 少女を喰らう事で本当に妖魔が永遠の生命を手にすることが出来るのかどうかは判らない。だが、あの街は……あの街を襲った妖魔は、そう頑なに信じていた。
 そして、私を狙った。
 ……違う。そうじゃない。
 私は事実を知っている。
 妖魔は私を狙ったのではなく、あの街の一部の心ない人達が私を狙うように仕向けた事を。
 身よりもなく、ある日突然街の中に現れた人間。身なりは汚く、一体どこから来たのかも全く判らない。もしかしたら妖魔ではないか。そう影で囁かれたこともある。
 そんな邪魔者を自分達の手を汚すことなく消すことが出来る格好の機会だった訳だ。
 しかし、孤児院を兼ねている教会はそんな事を許そうとはしなかった。
 そして、悪夢のような夜が訪れた。
 結論から言うと、本来死ぬはずだった私は生き残り、教会内の全ての牧師様・神父様を含む大部分の人が死んだ。私を守って、死んだんだ。
あの街を襲った低級妖魔も死んだ。魔族に私を襲うよう仕組んだ街の人間も死んだ。
 こんな馬鹿な話はないと思う。けれど、私にはもう済んだことだから何も言えない。私だけが生き残ってしまった事実だけがその場所に残った。
 あの夜、神父様は私に言った。
『お前の生きたいように生きろ。主はいつも、お前の直ぐ傍に…』
 言い終わる前にうなだれた神父様はもう既に息絶えていた。私はそのまま、辺りを見回す。馬鹿げた話だが、もしかすると直ぐ傍に神様がいるかも知れない…そういう思いに駆られた。逃避…だったのかも知れない。
 だが…現実は残酷だ。
 見渡した周りにあった物は実に悲惨な光景だった。見渡す限りの死体の山。人間も、妖魔も混ざっている。鼻をくすぐる嫌な匂い。血やら泥やらが木やらが焦げた匂い。死臭。あちらこちらに飛び散る血、贓物……。この世の物とは思えない情景だった。
 泣き叫ぶことすら意味がないこの空間。神父様に託された純銀製の十字架を握りしめ、眼を深々と閉じる。
「……Amen.」
 神様なんて、この世にいないのでは、と疑ってしまった。

「……思い出さない方が良いよ」
 相変わらず馬を操っている『彼』の一言で私の意識は現実世界に戻ってきた。
「嫌なことは思い出さない方が良い。…だけど、忘れてはいけない」
 『彼』は私を諭すような口調でゆっくりと言う。まるで、親が泣いた子供を宥めるように。
 吃驚した。
 『彼』には私の考えていることが判っているのだろうか。判らないけれど、『彼』の言葉から『彼』が私の心をいたずらに読んでいる訳ではなく、どこかで察してくれている事だけは確かだ。あの街を出てからどれくらい時が過ぎただろうか、『彼』への感情は単なる「恐怖」から次第に移りつつあったのかもしれない。
「…貴方は」
 ガクンっ!
 私が口を開こうとした瞬間だった。車輪がまた地面に落ちていた小石を踏みつけたのか、馬車が大きく揺れてその拍子で私は舌を噛みそうになった。出鼻を折られ、ただ黙っているだけしかできなくなった。
「……ん?何か言ったかい?」
「……何でもありません」
 訊くことが出来なかった。別に訊かなくても良いことのように思えてきた。
 馬車内に置かれている長いすに手を付き、目を細めて遠くを眺める。顔のすぐ 横の方は面白味のない渇いた風景が素早く流れるだけだった。
「…ところで」
 黒々とした馬の背に鞭を入れながら『彼』が再び口を開く。
「お腹、空かないかい?」
 馬車での移動の旅は決して楽な物ではない。日が暮れる前に街へと辿り着くことが出来なければ野宿だし、食べ物を食べることすらも出来ない。教会にいた頃は毎日当たり前のように三食と、お茶の時間には少しのお菓子が出た物だった。
 だが、この生活にそんな物はない。
 でも決して文句が言えた立場ではないし、私は別にこの生活が嫌でもなかった。むしろ、以前の"監獄の街"にいた頃よりも生き生きしているのかも知れない。神父様は私に「生きたいように生きろ」と言ったが、今まさにその通りに生きている。自由は効かないけど、私は自由にしているつもりだ。
 いや、そうだと思いたい。
 先程の『彼』の問いかけに、私は無言で頷いた。
「そうか、そうか。…それじゃ、もう少しの辛抱だ」
 言い終わると『彼』はまた、威勢良く馬に鞭を入れる。ガタガタと椅子が揺れる中、私はまたそとの風景を眺める。馬車に乗って旅をしている時の楽しみと言えば、風景を楽しむくらいしか無い。
 晴れた昼間はこの渇いた空気の中、流れる風景を楽しむ。夜になると、天に瞬く星々を眺める。
 そうして、いつの間にか深い眠りにつく。旅はこの繰り返しだった。
 『彼』が言う『目的地』に着くまで、後何度これを繰り返すことになるんだろう。 だけど、嫌いじゃない。ずっと続いても良いとすら思う。
 ふと、流れる風景の中、地面を色々な色が流れていることに気が付いた。
「……花…」
 私は道端にただ渇いた土が広がっているばかりだと思っていたが、どうやらそれは思い過ごしだった。どうやら、この道を前に進めば進む程、ちっぽけなそれが現れてきている。
 色とりどりの、何十種類という花が道に自生している。
 私の呟きを聞いてか、『彼』が少しだけ首を後ろへ倒し、こう告げた。
「そう。"花売りの街"だ」

 "花売りの街"は大きな円形をした商業都市だと言う。名前の通り街中のあちこちに花売りの女性が立って行商をしている。色とりどりの花に、香りも様々だ。
 馬を貸し馬小屋に預けた『彼』に私は続いて旅館を目指した。
 町中の空気は明るく、清々しい物だった。
 歩いている途中、目の前にすっと一輪の花が差し出された。藍色掛かった不思議な花で、良い香りがした。顔を上げると、一人の花売りの娘さんがにっこりと微笑みながら花を差し出している。
「一輪、如何ですか?」
 私がどうして良いか判らず戸惑った表情で居ると、『彼』が横から話しかけてきた。
「花…ね。貰っておけば良いじゃないか」
「でも…」
 私はお金という物を持っていない。この娘さんは当然花を"売って"いるんだ。貰うと言うことは当然お金を払わなければいけない。
 しばらくもじもじとしていると、花売りの娘さんがまたにっこりと微笑みながら言った。
「代金は要りません。どうぞ貰ってくださいな」
 その一言に私は顔を明るくし、一輪の花を受け取った。再び花の香りを嗅ぐ。 …とても幻想的な香りがする。心が安らぐような、そんな気分。
 ふと見ると、『彼』が娘さんに代金を払っているようだった。結局お金はとられるのか、と私は変に思った。きっと、『彼』が気を遣ったんだろう。
 『彼』と娘さんの会話が聞こえてきた。
「旅の方。お泊まり所は決まってお出でですか?」
「いや…まだだが」
「お決まりの際にはどうぞ、お知らせ下さい…」
「…?……あぁ、そうか…この街は…」
 『彼』は何かに気が付いた素振りで、手を自分の顎(だと思われる部分)へ持っていって撫でた。
「……いや。私はそういう事は望んではいない」
「でも、お金が…」
「取っておいてくれないかな?」
「………」
 何の話をしているのか私にはよく判らなかった。
 『彼』が再び歩き出したので、私もそれに続いた。
 暫く進んだ後、『彼』は歩きながら私に話しかけてきた。
「ライティア…。気が変わった。食料を調達したら直ぐにこの街を出るぞ」
「…どうして?」
 私の質問に、『彼』は少し声のトーンを落してで呟いた。
「それは後で話そう。……ここではあまり」
 告げると、『彼』は足早に商業区へと向かった。

 買い物を済ませて、少しだけ休憩している時だった。
『彼』が急に語り出したのは、この街の歴史だった。
一見活気のある花の綺麗な街だが、ただの街ではなかった様だ。
何故か、彼の話は今でも克明に覚えている。

     †     †     †

 この街が"花売りの街"と呼ばれるのは見て判るとおり、至る所に花売りが居るからだ。
 だけど、それはあくまでも表向きの顔。
 確かに、陽の高い内は笑顔を振りまいた花売りの娘が花を売っている。
 ただそれだけが珍しい、単なる商業都市のように思えてくるが…それは違う。
 この街の治安を守っている長…中流階級の妖魔だか金持ち下りの人間だか知らないが、そいつがまたあくどい奴でね。
 街の治安を維持する代償として、街に住む人々から多くの金を集めるんだ。どんな方法をとってでも、必ず金をもぎ取る。
 その所為で住む所を追われたり、命を失った人々は数知れないだろう。
 おまけにここら一帯は乾燥地帯、しかも何故かこれら花以外の植物は全くと言っていい程育たない。
 何らかの力が働いているのか…それは私にだって判らないよ。
 こんな、花しか咲かないような街に高額の金を稼ぐような産業は何もない。
 しかし、金を得ることが出来なければ住む所を追われる。
 困った人々は最悪の手段に出ることになったんだ。
 そこで始まったのが、「身売り」だった。つまり、若い娘を売るのさ。…そう、体を。
 ああやって、昼の内に花を買ってくれた男の泊まり所を聴きだし、そこで一晩中"働く"訳だ。
 昼の内は元気に花を売る娘、夜は娘達自身が売られる花となる…という寸法さ。
 いけ好かない商業だが街の長が強欲な輩である以上、仕方がない。
 ここでの法は、そういう事になる。
 勿論、決して快い物だとは思わない。
 でも…何しろ、彼女たちも生きるのに精一杯なんだ。
 例えやめろと言ったって、全員聞く耳を持たないだろうさ。
 働いている娘は若い者はライティア…君より若い年齢でだっている。
 君が売り物だと思われてどこかに連れて行かれても、私は助けることが出来ないかも知れないからね。
 判っただろう?この街の事が。
 それが……早々にここを立ち去りたい理由さ。

     †     †     †

 話を聞き終わった時、私はとても哀しかった。
 何よりも、私程の歳も無い若い娘が生きる為に体を売ってまでお金を手に入れていると言う現実が哀しかった。
 先程花売りの娘さんから貰った藍色の花が、哀しい香りを漂わせていた。

 数日分の食料調達を終え、商業区から広場へ戻った時だった。
 先程私に花を一輪譲ってくれた娘さんの前に、ある男の人が立っていた。
 何やら娘さんと話している…と言うより、その男の人が一方的に言い寄っている様子に見えた。
「ちっ…やはり、か」
 私の横に居た『彼』は舌打ちをすると、苦そうな顔をして顔を背けた。
と、その時。娘さんに言い寄る男の人の前に、一人の女性が立ちふさがった。
 銀色の綺麗な髪をした人で、大きな剣を持っており、小柄な体型をしていると言うのに男の人の腕を掴んで行動を制した。
 花売りの娘さんを庇っている様子だった。
 そそくさと立ち去ろうとする彼のコートの裾を引っ張り、私はその様子をまじまじと見続ける。
 動こうとしない私のその様子に気が付いた『彼』も、やれやれと言った顔をして私と同じ方向へと顔を向けた。
 銀色の髪の女性と男の人との言い争いが聞こえてきた。
「クッ、手を離せこのアマ!」
「……お前こそ、この娘から離れたらどうだ」
「テメェには関係ねぇだろ!」
「あくまでこのまま続けるのであれば…手首の骨一本では済まぬぞ」
 そう女性は言い終わると腕に力を入れたらしく、男の人の手首がメリメリと音を立て始めた。
 すると男の人はとてつもなく大きな声で悲鳴を上げ、最後には気を失ってしまったらしくその場に倒れた。
 どさっ、と崩れる音がする時、私の隣にいる『彼』はもう一度、やれやれと首を振っていた。
 花売りの娘さんは恐慌状態に陥っており、泣いていた。
 女性は娘さんを細目で見ると、長の家はどこだ、と訊いている様子だった。
 騒ぎを聞きつけてか、他の花売りの娘さん方が集まってきた。
 口々に泣いている花売りの娘さんの名前―――マリーと言うらしい―――を呼んでいる。
 女性は他の花売りさんに何かを尋ね、そしてすっと背を向けて何処かへ歩き出してしまった。
 私の隣で一部始終を見ていた『彼』は、やがて何かを決したみたいに花売りの娘さん方の集まりへと向かって歩き出した。
 私から、先程この花売りさんが私にくれた花を借りると泣きわめいている花売りの娘さんへ花を近づけた。
「……眠れ」
 暫く喚いていた娘さんは、突然大人しくなってしまい、何があったのかと彼女を見ると眠っている様子だった。
「この花は別名"眠り花"という。花弁などから鎮静剤の原料が取れるんだ」
 私にそう言うと『彼』は他の女性へ質問をした。
「先程の女性は君達に何を訊いていたんだ?」
「この街の長の居場所です…」
「……そうか。彼女を頼む。どこかで休ませてあげてくれ」
 言い終わると『彼』はすっと立ち上がり、私の方を向いて言った。
「ライティア…済まないが、また少しばかり気が変った。ちょっと寄り道をしていこう」

 その建物は街の最も北にある区画に位置していた。
 ぱっと見ただけで単なる庶民階級の家ではないことが歴然と判る家だった。
 外向きは華やかな印象がある家だというのに、私はこの家は好きにはなれなかった。
 外見の華やかさと対称的に、その内面に何かただならぬ雰囲気を感じ取った …とでも言うのだろうか。
 空気が重たい。
 彼は大きな門の前で突然動きを止め、何か物思いに耽るように佇んだ。
 私は何事か判らないまま、『彼』のコートの端を握る。
 彼の目線(とは言っても眼の位置は判らないのであくまでも推測)を追った方向へ眼をやると、建物の入り口付近で人が倒れていた。
 恐らく、この家の衛兵だったんだろう。
 そして、やったのは先程の女性。
「ふむ」
 『彼』は顎を撫で、少しだけ嬉しそうに言った。
「これは…ただ者じゃないかも知れないな、彼女」
 『彼』は再び歩き出し、家の扉を開いた。
 扉をくぐると中は騒然とした雰囲気で、あちこちに人が倒れていた。
 どれもこれも剣による傷を負っている人ばかりだった。
 怪我人の呻く声が不気味に響いている。
 『彼』はさらに嬉しそうな様子をしていた。
「ふむ。これは面白いことになっているようだ。ライティア、先を急ぐぞ」
 喜々とした様子で歩を進める『彼』に私は着いていくのが精一杯だった。

 その部屋は階段を三つ上った先の眼の前にあった。
 そこに辿り着くまでに幾度と無く死体なのか、生きているのか判らない人間達が廊下に転がっていた。
 そのどれもが鋭利な剣による剣傷で、それらは余程の訓練を経た者でなければなしえない程の太刀筋で在ることを傷その物語っていた。
 そしてその傷を持った者がこの部屋の入り口にも倒れていた。
 部屋はこの階の領域の殆どを占めており、この階のはこの部屋しか無いようだ。
 開き掛かった扉の先からは依然として剣の擦れ合う音、銃声、叫び声などが聞こえている。
 それが次の瞬間にはぴたりと止んだ。
 『彼』は扉を両手で軽く押し、一杯に開く。軽く軋みながら扉は開かれた。
 建物内としては今までと変らないのに、その部屋だけは独特の雰囲気を放っていた。
 先程建物の外で感じた嫌な物の感じ。それがさらに強くなった物とでも言うのだろうか。
 いや、ここがその元凶であると言った方が正しいんだろう。
 部屋の中央には銀色の髪が美しい女の人が剣を携えて立っており、その正面奥には大きな椅子が一つあり、そこに一人の男の人が座っていた。
遠くから観ても判る程脅えている。
 よく見回すと部屋内の周りには先程と同じように人が沢山倒れていた。
 『彼』はその様子を楽しげに見ている。
「た、頼む…命だけは、命だけは助けてくれ!!」
「……」
 女性は無言で歩き出し、その椅子の手前まで来た。
「か、金ならいくらでもやる!お前の欲しい物を言ってみろ」
「……貴様…」
「ひ、ひィ!!」
「……あの娘共に何の罪がある…」
「な、何だと?」
「あの娘達が一体何をしたのかと訊いている!!」
 どがっ
 大きな音を立てて、男の人が座っていた変な形をした椅子の背もたれが吹き飛んだ。
 あの大きさの剣であれだけの物を斬ることが出来るなんて。
 腕力もさることながら剣の切れ味ももの凄い物だと判った。
 背もたれの消えた椅子から転げ落ちた男の人は四つんばいになりながら壁際へと逃げる。
 女性がそれをゆっくりと追っていく。
「ふ……流石、これだけのことをやるだけはある」
 その時私は気が付いた。
 先程から感じていた嫌な感じ…これはこの建物が発している訳ではなく、この女性が帯びている殺気なんだと言うことを。
 この、一見華奢な体つきをした女性のどこに、これほどまでの殺気が隠れていると言うんだろう。
 これほどの殺気を抱く程の理由は一体何なんだろう。
「く、来るな…来るなァ!!」
 私の隣の『彼』は微動だにせず、その様子を眺めている。
「あの娘達を解放しろ……今すぐに!」
 どんっ
 壁際に追いつめられた男性の顔の直ぐ横に剣が突き刺された。
 男の人はもう恐慌状態だろう。
 その時、女性が持っている剣が突然喋り出した。
「こいつァ今そーとー頭に来てるからナー。うっかり殺っちまいかねんぞ、くくく…」
 突然のことで私は自分の耳を疑った。あの剣、………生きている。
 驚く私を見て『彼』は説明を始めた。
「『ソーディアン』だって『グロスポリナー』だって喋るんだ。今更剣が喋るくらいのことで驚いてどうする?」
 そう言って、にやりと笑った。
 その笑顔が私にはどこか不気味に感じられた。
「む、娘共を解放しろ……だと?…そ、そんなこと出来るかァ!」
 男の人はその女性を突き飛ばして走り逃げる。反対側の壁へとまた張り付く。
「俺はこの場所を治めている!市民はそこに住んでいる!安全の代償として俺に金を払うのは当然のことだろう!?」
 壁にもたれ掛かり、大声で叫んでいる。
 私は気が付いたけれど、男の人はその時手で壁をまさぐっていた。
 何かを探しているようにも見えた。
 女性はその事に気が付いているのかどうか判らないけれど……再び男の人へ向かって歩き出した。
「これは当然のことだ!ビジネスだ!!」
「ちっ、往生際の悪ィ奴だな…。エル、手足の一本、二本くらい構わねェだろ」
「………」
 喋る剣を上段に構え、女性が男の人と対峙する。
 剣を上段に構える…と言うことは、直ぐに攻撃へ転じることの出来る、いわば「攻撃向け」の構えなんだ…と以前『彼』が教えてくれた。
 しかしその分、防御の方がおろそかになる…とも。
 もしもあの男の人が何か武器を探しているとしたら……女性がその事に気が付いていなければ、女性が危ない。
「さぁ、…今すぐに」
 女性が口を開いた。
 その瞬間、男の人はいつの間にか手に持っていた銃を彼女へと向けた。
「死ぬのは貴様だ!」
「なっ!?」
 女性は一旦身構える様な動作に入ろうとした。
 しかし、あの体勢から防御へ転じるのは時間が掛かりすぎる。
危ない―――!!
「あっ」
 私は思わず叫んでしまった。
 今まで私の隣にいたはずの『彼』が忽然と消えていることにも気が付かずに。
 どんっ
 鈍い銃声がした。
 私は恐る恐る眼を開ける。本当は開けたくない瞼を持ち上げる。
 眼を開けた瞬間に目の前に広がる光景が容易に予想が付いたから…。
 そしてその光景を私は望まなかったから。
 しかし、実際に眼に飛び込んできた映像は想像とは全く異なる物だった。
 銃を撃った男の人と、喋る剣を構えた女性の間にさっきまで私の隣にいた筈の『彼』が立っていた。
 『彼』のコートが部屋の照明の光を浴びて赤黒く、鈍く光って見えた。
 まるで、前身に血を浴びたかのような鈍い色。
 『彼』が何故あの位置に立っているのかは判らなかったけれど、銃声がなった時にあそこにいたということは、『彼』は撃たれたと言うことになる……?
 『彼』は身動き1つせずその場所に立っていた。
 沈黙。
 厭な空気が流れたが、その空気を破ったのは意外な一言だった。
「剣に銃は美しくないなぁ、街長」
 それは紛れもない『彼』の声だった。

 「パンにはパンを、血には血を…。剣には剣で人としての仁義を尽くしたらどうなんだ?ん?街長よ」
 『彼』は一歩、足を前へ踏み出す。
「く、くるな…くるなぁ!!」
 どんっ、どんっどんっ
 鈍い銃声が立て続けに三度鳴った。全て『彼』へ向けて放たれた銃弾の物だ。
「ここまで言っても剣で戦おうとしないと言うことは…剣では戦えない何らかの理由があるのか?」
 銃弾を受けているはずなのに、『彼』は笑いながら歩を進めている。
 どんっ、どんっ
 さらに二つ鳴った。街長はもう恐慌状態なんだろう。
「それとも、まさか……人じゃないのか?……ククク」
どんっどんっどんっ、カチカチっ
 さらに三つ銃声鳴った後、街長が引き金を引いても銃声が鳴らなくなった。弾切れになったんだ。
「あぁ、言い忘れたが」
『彼』は街長の目の前で立ち止まり、右手を差しだし続けた。
 完全に開かれた彼の掌から9個の銃弾が落ち、凛とした金属音を立てて地面へと落ちた。
「……私に銃弾は効かない」
「……う……うぅ……」
 項垂れた街長の頭に彼の右手による掌底が見事に決まり、街長は壁にもたれ掛かりずるずると倒れ込んでしまった。
 もう生きている心地すらしないんだろう。或いは今ので意識を失ったのか…。
 『彼』は街長に背中を向けてこう言った。
「これに懲りたら彼女の言うとおり、街で働かされている娘共を解放するんだな」
 そして最後にとびきり邪悪な笑顔で笑った。
「あっ、か…感謝する」
 前に向き直った彼に、あの喋る剣を片手に持ったままのあの銀髪の女性が言った。
「オイオイ、何だ。もっと気の利いた事言えないのかヨ」
「す、すまない…だが、本当に有難い。そなたのお陰で助かった。礼を言う」
「ちっ、相変わらずお堅いねェ…」
 少し顔を赤らめながら、うつむき加減で話す彼女に例の剣がヤジを入れている。
「私の剣もまだ修行不足……我身を守る事すらも出来ない…。何かお礼の一つでも…」
「おーおー。かーいいおにゃの子がこんな所で何してるヨ」
「え……私?」
 さっきまで女性の手の中にあったはずの剣が、いつの間にか私の横に来ている。
 私はちょっと戸惑いながら、その剣の輝きに見とれていた。
「何で剣が喋るんだ…って顔してるな?」
 その剣は私の思っている事をぴたりと当ててしまった。それに何だか、私の方へとにじり寄ってきている気がする…。
「ア然としてるよーだが・・・ま、俺のコトは剣に人の霊が憑いたとでも納得しとけ。だから俺は人だ。物扱いすんなヨ?」
「…おい…テスタ………お前はどうして何時も何時も…」
「……く………く、くくく…」
 話の途中で突然、うなだれて地面に伏している街長が笑い声を上げた。
「くくくく……くはははは!ひゃぁはっはっはっはぁ!!!」
 ごそりとその右腕だけを持ち上げ、銃を真っ直ぐ『彼』に向かって向ける。
 でも、あの銃にはもう弾は入っていないはずなのに。
 街長が引き金を引く直前……。
「危ねェ、男!避けろォ!!」 「危ないっ!」
 女性と、彼女が持つ剣との声が被さった。
 次の瞬間、彼女は『彼』の体を突き飛ばしていた。
 そして、彼が居たはずの空間に何らかの『力』が通った。
 反対側の壁にその『力』が衝突して、壁が一気に崩れ去った。
 弾丸はもう尽きているはずなのに、どうして……。
「魂弾……つまりソウルショットと言う事か。…遂に本性を現したな」
 起きあがりながら『彼』が言う。
「これで貸し借り無しだな」
「あ、あぁ……」
 私は訳が判らずにただ見ているだけしかできなかったが、隣にいる剣が説明をしてくれた。
「あれはなー、ソウルショットって言って己の魂の欠片を弾丸として撃ち出す技なんだ。だが、あんな人間やら低級魔族の端くれなんかに使いこなせる技じゃねェ」
「つまり……」
『彼』が街長を見定めて言う。
「あいつは単なる魂の抜け殻。本体は別の奴だって事だ」
「はい、良くできました」
 その声はもう既に街長の物ではなかった。
 見ると、街長は地面に倒れたままであり、その前に見た事のない男の人が立っていた。
 若い顔……、長い髪。残酷な唇の形をしていて、にやりと笑った。
「こんなクソ低級な人間なんぞにこの俺が入り込むなんて滅多に無い事だったんだが…コイツがなかなか使えてなぁ。面白いんで暫く遊んでやったよ」
 言いながら街長の体を蹴飛ばす。あれはもう魂の入っていない、死体同然だった。
「……ふ…」
 『彼』はまた余裕ありげに笑う。
「何がおかしい」
「何、ヴァンパイアの類だと少し厄介だったが…何の事はない。蟻がゴキブリになった様な物だ」
「何だと……」
 その男は怒った顔をして手に持った銃をまた構えてた。
「テスタ……来い」
「ちっ…しゃァねェな…」
 私に寄り添っていた剣もその女性に呼ばれて手元へ戻った。
「…どうやら私が手を下すまでもない。このお嬢さんで十分だ」
 『彼』はそう言い、私の下へと歩き始める。
「ふん…いいだろう。どのみち皆殺しだ。まずはこの女から……。彼の期待を裏切らないように頑張ってくれるといいのだがね」
 魔族の男が低い声で言い放った。

     †     †     †

「ふ…ふふ、皆殺し…皆殺し、ねぇ。それはいいが目の前のお嬢さんにせいぜいみっともない姿を晒さないようにな」
 先程仕留め損った男がヤケに嬉しそうに言う。余裕な口調が癪に障る奴だ。連れである娘の横に歩いていき、こちらを振り返った。
「チッ……直ぐだ。3分以内に終わらせてやる。その次に貴様をぶち殺す」
「戦いの最中だろ、余所見するなヨ」
 目の前で対峙している女の握っている剣が喋る。何の妖術だか判らないが生意気な事を吐きやがる。女を仕留めた際には粉々に粉砕してくれる。俺は魔銃を顔の高さで構え、女の体の軸を中心に狙いを定めた。女は銃撃を警戒してか、喋る剣を下段に構えている。防御態勢という事か。
 相変わらず剣は喧しく何か呟いているが女の方は至って冷静な様子でこちらを伺っている。防御態勢を取っているからにはこちらに突撃しては来ないだろう。恐らく俺の出方を伺い、その反撃を狙っているのだ。俺の武器は女の剣とは違い遠距離からの連撃が利く。間合いの面でも圧倒的に俺が有利だ。
少しは遊んで痛めつけ、苦悶に歪むその表情を見て楽しもうかと思っていたがそれもやめだ。あの男を仕留めるという仕事が出来た。残念だが目の前の女は跡形もなく消し去る事になるだろう。俺の出方を伺っているなら、いいだろう。お望み通り俺から撃ち込んでやる。
 俺は念を込め引き金を引く。相手がこちらの様子を伺っているのだから俺も迂闊に近寄れない。牽制をかけるつもりで相手の体の中心へ、それほど大きくない魂弾を撃ち込んだ。
 女は弾道を見極めまず左へ動いた。すかさず俺は第ニ撃をやや体の左に撃ち込む。当たれば肩下から脇腹まで抉る事が出来る弾道だ。しかし女はそこから右へ抜ける。単発では仕留められないという事だ。
「…どうした。やる気は在るのか?」
「テメェのヘタレ弾なんざ、あたらねェんだヨ!」
 言葉を聞き、思わず笑いがこみ上げてくる。そんなに死に急ぎたいのか。声に出して笑う。止まらない笑いだ。銃を持っていない方の手で顔を押さえる。ああ、なんでこんな馬鹿な女を相手に選んでしまったんだ。あはははははは………さっさと死ね。

     †     †     †

 急に笑い出したかと思うと急に笑うのを止め、連撃を撃ち込んできた。正式な型に則った構えをしたままだと流石の私でも避けきれないかと考え、仕方が無くテスタを右手のみに持ち替え、斜めに構えつつ左右に避けて走る。
 敵はひたすら連撃を撃ってきており、私が単に左右に避けているだけだと思いこんでいる様子だ。私の狙いはそこにある。次第に距離を詰め、斬撃の間合いに入った瞬間一気に斬り込む。剣と銃での間合い差を埋める為にはやはり近場に寄らなければ何もできない。
 これだけの弾数を避けるには流石に悠長に避けているだけではいけないが、その方が好都合だ。相手にこちらの動きを悟られにくくなる。現に相手は撃つ事にだけ集中して私が先程立っていた場所から数歩分も前に出ている事に気付いていない。
 ……あと、2歩分……そして私は剣撃の間合いに入り込み、右斜め下からテスタを振り上げた。
 手応えは無く、目の前に敵がいなくなっていた。避けられた。姿は前にいなく、左右にいない。となると……。
 気が付いた時にはもう遅く、相手に背後を取られた私は背骨への的確な肘撃ちを受けてしまった。よろけた体を何とか立て直し、正面向かい合う形になった所で私は改めてしまった、と思った。相手は肘撃ちだけでは済まさず、そこへさらに銃撃を重ねようとしていた。衝撃が今だ背骨を中心に伝わり軋む。迷っている暇は無い。私はテスタを弾道に向けて振るった。
「クッ…!」
 相手の弾は実弾ではなく所謂念の塊のようなものだ。実弾だとテスタの剣身にひびが入ったり刃こぼれが出来たかも知れないが、念の場合は多少の熱や衝撃で済む。……巧くかわす事が出来ればの話だが。すまない、テスタ。
「いってぇ!!おい、エル!テメェ、俺に何か恨みあんのかヨ!」
 私は無言で敵と向かい合い、半歩下がる。見てみると相手の顔が明らかに歪んでいた。怒り、勝利への確信、驕り……そんな物だろう。既に正気であるかどうか疑わしい。
 私は左へ動くような牽制をし、実際は斜め前へステップした。
 今回は敵がフェイントにのってくれたようで、相手の胸の辺りを真横に凪ぎ払った斬撃はテスタを伝わって腕へと抜けた。だが、まだ浅い。それでも、相手の動きを少しは鈍く出来た筈だ。
 相手は突然私の頭上を跳びながら銃撃を重ねる。左右に跳び、テスタを振るう。その度文句が聞こえてきたが、無視した。
 相手が距離を取った。私も後方へ避ける。最初の対峙と同じくらいの距離が開いた。
 どちらも一撃ずつ…。確実に互いの動きを鈍らせていた。
 一瞬たりとも油断は……出来ない。

     †     †     †

 ………。
 ……忌々しい。忌々しい。忌々しい。忌々しい忌々しい忌々しい忌々しいクソッタレが!!

 俺の連撃を避けながら接近して、さらにそこから斬り上げを放つ事から単なる俊足の持ち主というわけではないことは判っていたが、あろう事かこの俺に傷を付けるとは。この俺に傷を。胸に傷を。少し熱くなっている胸からは恐らく血が流れているだろう。幸いそれほど深く斬れていない様だ。

 ああ、忌々しい。もう絶対に容赦はしない。先程背骨を砕き損なった事を呪いたい。ああ、この俺に傷を…傷を…。
「どうした、3分以内に終わらせるんじゃなかったのか」
 あの余計な剣が口を挟む。見ると女も同じように口を吊り上げている。…嗤っている。
 この俺を見下すように嗤っている。下等な人間という種族の分際で魔族の一員であるこの俺を。
 ………殺す。
 …殺す。殺す。殺す。殺す。凝す殺す殺す殺す殺す殺すコロス絶対に殺す。殺す!!
「殺す!!!!」

     †     †     †

 相手がいきなり奇声を上げ、先程と同じように連射を放ってきた。テスタの挑発に乗ってくれたみたいだ。
 こちらは背中への衝撃によるダメージが未だ残っており、完全に避けきる事は出来そうにない。またテスタで払うか……。
「おい、エル…無理しねぇでさっきみたいに俺で払いな」
「……馬鹿者。言われなくてもそうするつもりだ」
「はっ、そんな事喋れるなら未だ余裕だな、辛そうな顔してるんじゃねェ」
「…五月蝿い、集中できない」
 私はテスタを振るい、二つ三つの魂弾をはじき返した。心なしか先程より衝撃が弱い様な気がした。
「おい、エル……あいつ自分が傷つけられた事に正気を失って集中力を欠いている」
「ああ……攻め落とすなら今…だな」
 私は決断するや否や、左右に避けながらテスタを中段に構え、そのまま敵へと走り寄った。弾はまだ跳んでくるのでステップを左右へとして最低限の動きで避けた。やはり先程の打撃箇所が軋むが、今は構っていられない。テスタを平突きの体勢に構えてそのまま間合いを抜け、敵の肩へ突き刺す。 テスタを肩から抜き、そのまま左斜め上から斬り払う。手までは奪えなかったが、どうやら相手の銃に当たったようで床に乾いた音が響いた。
 そのまま相手の足下へ蹴りを放つ。私の連撃に相手は対処しきれず、床へ転ぶ事になった。すかさず私はその相手の手を踏み、テスタを上段から突き刺す構えを取る。そしてそのまま相手の体へ剣を突こうとしたその時。
「やめてぇぇぇぇぇぇ!!」
 部屋中に響く、少女の声がテスタの切っ先を止めた。

     †     †     †

 気が付くとまた私は叫んでいた。今度はあの女の人が危ないからじゃない。あの女の人が、若い男の人を突き刺そうとしていたからだ。
 あの男の人は街の中で無理矢理働かされている花売りさんたちを仕切っている悪い人なんだと判っていた。判っていたのに、私は止めてしまった。
「……何故止める」
 女の人は顔をこちらにむけ、無表情のまま私に問いかけた。
 そんな事、私にだって正確には判らない。ただ、それが誰であろうと、どんな悪人だとしても、もう私は"血"を見たくなかったのかも知れない。それに…私には信じている物があった。あの教会で学んだ事、神父様に教えられた事。
「……〈例えどんな理由があっても、決して生ける物を殺めてはいけない〉…」
 私の口からは無意識にそのセリフがこぼれていた。
「……なんだ、そりゃ。神様の教えか何かか?」
 女の人が持っている剣が苛々した口調で私に言う。すこし恐い。
「…はい、そうです。…神の教え…です」
 私の答えの直後に隣にいた『彼』はやれやれといった具合に溜息を吐いて、肩をすくめた。
「『戦いの最中だろ、余所見するなよ』」
「!!」
 しかし先程の溜息とこの言葉は私の言葉に向けて吐かれた物ではなかった。『彼』はずっと女の人とあの男の人の様子をうかがっていたんだ。私が女の人の方へ向くと、手を踏まれていた男の人が反対の手を彼女へ向けて何かを呟いている所だった。
「……神…、…神……だと……?」
 おぞましい、地獄のそこからわき上がってくるような声だった。
 彼の掌から、先程まで銃の先端から出されていた……魂弾と同じ物が出て、 彼女の体へと当たった。彼女は後ろの方へ大きく吹き飛んでしまった。
「かはっ…!」
「おい、エルっ!」
 倒れていた男の人は急に立ち上がると、ものすごい速さで私の方向へ走ってきた。
「…神…神…ダト、神…神…ナド唱エル輩ハ……死ネ……死ンデシマエェ!!」
一瞬だけ、相手の顔を見た。目はつり上がり、口は裂ける程残忍に開かれ、……もはや真っ当な精神をした者の顔ではなかった。
「危ない!」
 女の人が辛そうな顔をしながらよろよろと立ち膝になりながら叫ぶ。私はどうする事も出来ず、恐怖に震える暇すらもなかった。
 しかし、その時私の前にすっと、横にいた『彼』が立ち塞がり先程まであっちの床に転がっていたはずの拳銃を構えた。いつの間に拾ってきたんだろう。
「お前がライティアを狙った時点で死は確定だ」
 『彼』は何の躊躇いもなく、引き金を引いた。残弾のない拳銃の引き金を。銃口からはあの男の人が放っていた魂弾よりも重い魂弾が打ち出され、走り込んできた男の人の両脚をなぎ払った。
「グギャァァァァァァァァァァァ!!!!」
 男の人の絶叫がこだまし、私は思わず顔を背けてしまった。
「喧しい。吠えるな、下衆が」
 勢いが活きたまま、下半身のない男の人の上半身だけがこちらへと向かって 跳んでくる。『彼』は、その男の人の頭を左手で掴んだ。
「上体が残っただけでも有難く思え」
 そう言い放つと、ボールでもつくかのように地面へと投げつけた。ごっ、という音の後に、べちゃっという音が部屋中に響いた。嫌な音だった。
「悪いとは思ったが、こちらに手を出しそうだったので脚だけ頂いた。とどめはお嬢さん、あんたが刺しな」
 『彼』は背を向け、後ろに銃を投げ捨てるとそう言いながら私の手をとり、部屋の入り口へと歩き始めた。
「ああ、殺る場合は心臓でも貫いて早々に仕留めるんだな。そのまま放置していてもロクな処置無しでは生きられまいが」
 私は『彼』に従うほか無く、無言で続いた。
「最後に一つだけ……言っておこう」
 私の背後から、あの剣の声が聞こえてきた。
「嬢ちゃんは自分の信じる神の言う〈不殺〉ってのを貫き通しているみたいだがな」
 あの剣の、さっきまでとは同じ物だとは思えない冷たい口調で放たれる言葉が私の背中へと突き刺さる。
「世の中には自分の信じる神の為に殺し続けている奴だっているんだ。覚えておきな」
 私は顔を伏せて、『彼』と共に足早に階段を下っていった。

 相変わらずの喧噪に満ちた町中を、私は『彼』のコートの端を掴みながら足早に歩いていく。やはり先程の事が頭から離れずに私の心へと強くのし掛かっていた。
 『彼』は一言も口を開こうとはしない。怒っている訳じゃないだろうけど、今『彼』に話しかける事は出来なかった。恐い訳ではなく、何とも言い表せない、心に掛かった靄の様な物がそれを邪魔する。
 考えてみれば、色々疑問が残る。『彼』の事を全て知り尽くしている訳ではないので尚更だと思うけれど、それでもやっぱり考えれば考える程頭には数々の疑問符が浮かんだ。
 ―――世の中には自分の信じる神の為に殺し続けている人だっている―――。
 あの剣の残した言葉が何度も私の頭の中で反芻されていた。
 多くの疑問に頭が混乱しそうだった。やはり耐えきれなくなり『彼』に訊いてみる事にした。
「どうしてあの女の人の手助けをしたんですか…」
 私の突然の質問に『彼』は少しだけあっけにとられたような間をあけて、笑いながら答えた。
「何、手助けなんかじゃないさ。あれ程の事をやってのける彼女の技量を見たかったのと……あとはまぁ、単純にあの低級妖魔に腹が立ったのさ」
 私は訝しげな顔をして質問を重ねる。
「あの女の人は……もう、あの男の人を殺したんでしょうか…」
「殺していないだろうね。根拠はないけど、私はとどめを刺していないと思うよ。 彼女に殺める勇気が無い訳じゃない。あの技量の様子じゃ、もう何回も殺しをしている。けれど、あいつにはとどめは刺していないと思うな」
「………」
 私はその言葉を地面に顔を向けながら黙って聞いていた。
 確かにこの世界は何かと理不尽な事が多い。綺麗事だけじゃ生きていけない。自分のみを守る為ならば人を殺しても仕方がない事もある。それは私自身にもよく判っていた。
 自分の命を永遠にする為。自分の安息を得る為。他人の命を食いちぎってでも自分の物にしていかなければ生きていけない、それがこの世界だと私は思っている。
 でも、やっぱり私にはそれが出来ない。頭では理解出来ているというのに、いざ目の前にその情景が現れると溜らなく我慢が出来なくなる。もし、私が殺さなければ殺される…そういう状況に出会ったら、例え相手が誰だろうと進んで殺される事を望むと思う。
 しかし、何よりももう目の前で人が死ぬのは見たくない。今はただそれだけを望む。
 『彼』が馬車を預けていた相手に話をつけ終わった所で私はまた質問をした。
「どうしてあの花売りの娘さんを助けてあげたんですか…」
「おや、今日は質問のオンパレードだね」
「……」
「彼女を助けた理由……か」
 『彼』は考え込むような素振りをして少しだけ唸っていた。が、目の前に広がる市場の店頭にあった厚い本を手に取り、店主に金貨を払うとその本とあの花売りの娘さんに貰った"眠り花"を一緒に私へと手渡した。
「これからまた暫く暇だろうし、これをあげよう。さっきの質問の答えもきっとこの中にあるよ」
 私はその本の背表紙に書かれてある文字を読みとった。花言葉の本みたいだ。今すぐ本を開いて読みたかったが、馬車が到着してしまった為、乗り込んだ後に回す事にした。

 街の門に差掛かった頃にはもう日が完全に傾いていて、空が茜色に染まっていた。本来ならそろそろ街を探すか、休める場所を探すかしているような時間だ。けれども、『彼』はもうこの街の宿に戻る気はないみたいだ。今日は馬車で走り続けるつもりらしい。
 馬車に揺られながら私は先程彼に手渡された本を開く。中には色とりどりの絵とともに花言葉の詳しい説明が書かれていた。どこから見ていいのか迷う程、沢山の花が載っている。
 私はまず、本と一緒に手渡されたあの花を調べてみる事にした。
 その花とほぼ合致する絵柄の花言葉に目を通してみる。花言葉は"安らぎを求めて"だった。同様に書かれていた解説には、前に『彼』が言ったとおり花弁には心を落ち着ける作用を持つ香りがある事、特殊な精製法により鎮静剤が作られる事、そして最後に花言葉の意味の広がりでいつしか使われるようになった"助けてください"と言う意味も持つ事が書かれてあった。
 あの花売りの娘さんは『彼』に助けを求めていたんだろうか。いや、でもあの時娘さんが花を手渡したのは私にだったはず。だったら、私に助けを求めていたんだろうか。判らない。幾ら考えても、やはり頭の中には疑問符がいくつも浮かんでくるばかりだった。
 私は本を閉じると一つ小さく息を吐いた。今日はいろいろありすぎて少し疲れた…そんな気がした。
 窓から流れる景色を眺めていると、心の内に引っかかる事を思い出した。意を決して、あの時から―――私を救ってくれたあの廃墟から―――今も同様に持ち続けている『彼』への疑問を、ついに耐えきれなくなり直接訊いてみることにした。
「…貴方はどうしてあの街で…私を救ってくれたんですか」
『彼』は前を向いたまま暫く無言でいた。もともと表情がよく見えないので、一体何を考えているかは判らない。『彼』は突然ぽつりと言葉を漏らした。
「君は…あの街で何があったかを克明に覚えているかい?」
「……はい」
「あの時君が一体何をしていたかも?」
「…………」
「少なくとも……私が君の目の前に現れた時の事を覚えていないなら…今はその答えを言えない」
 私は『彼』の言葉に納得しなかった。けれどこれ以上訊く事も出来なかった。『彼』は以前として前を向いたまま馬を操っている。私は邪魔にならないように椅子へ戻り、そしてもたれ掛かった。
 手に持ったあの花の香りを嗅ぐ。…確かに心がゆったりとするような、そんな心地がした。
 この花がある限り私は眠れないという事は無いだろうな……そう思いながら目を伏せた。いつの間にか、私の意識は薄らいでいった。

     †     †     †

 しばらく経った後で聞いた話だけど…。
 私と『彼』があの日立ち寄った花売りの街は、あの日を堺に人身売買といった非人道的な行為の一切ない街と変ったという。その変わり様に、『彼』やあの時の女性が関わり合いになっているかどうかは判らない。少なくとも、あの花売りの娘さんは今は、心の底からの笑顔で毎日を暮らしている事に変わりないだろうと、私は思った。
 あの日から、あの街は変った。やはり花以外の植物はなかなか育たなかったそうだけど、街の至る所に花が咲き乱れ、単なる商業都市としてではなく、それ以上に活気の溢れる街に変っていった。そしていつしか、あの街はその形を活かして、街その物が巨大な花時計都市となったという。
 私は、あの娘さんにならまた会いに行ってもいいな、と思う。巨大な花時計の街へ。

     †     †     †

「王女。お呼びですよ」
 ぼんやりとした明るみの中、私は次第に意識を取り戻す。遣いの方が私を呼んでいるみたいだ。
「すぐ行きます」
 答えると私はベッドから起きあがる。目の前の鏡に映った私はとある理由により王家の一員として城内で何不自由ない生活をさせて貰っているが、やはり身よりのない赤い髪の娘に変わりはなかった。
 時間は昼過ぎくらいだろうか。夢を見ていたみたいだった。『彼』―――今となっては、もうそんな呼び方はしないけれども―――と共にこの城のある街へ来る途中に辿り着いた、あの花の街の夢だった。今となっては懐かしい想い出の一つ…だろうか。
 私は部屋の外へ出る為扉を開いた。ふと振り返ると、その机の上は花言葉の本、そして薄蒼紫色をした小ぶりの花を咲かせた"眠り花"が花瓶に一差し、置かれていた。
 あの花を見るたびに私は思い出す。あの街の事を、あの花売り達の事を。
 私は足早に自室を後にした。
 部屋に残された花は、あの甘い香りを漂わせ続けていた。